さて、後半のスタートは飯能織物協同組合事務所です。こちらも中に入らせていただくことになりました。屋根にある瓦で焼いたシャチホコは、シャチが水の神として火除けの意味合いで置かれているそうです。
霊亀2年(719年)に高麗群高麗村に朝鮮高麗より1,799名が亡命、帰化し、養蚕・製糸・絹織物の技術を広めました。明治36年(1903年)には武蔵織物協同組合が飯能に改組設立され、大正11年(1922年)には飯能織物協同組合が新築落成し、昭和53年(1978年)には飯能大島紬が埼玉県知事指定「伝統的手工芸品」の指定を受けました。飯能の産業の歴史を語るうえで重要な建築物です。
ちなみに中央の「武」という言葉の周りに3つの溝が4重になっていることで「634(武蔵)」を表しているとのことです。周りにはアカンサスの葉があしらってあります。
当時の産業の隆盛さを偲ばせるダンディなポスターを発見しました。
一行は2階へと。
巨大な空間が広がっています。当時はここで反物を広げたり、総会や宴会が開かれたりしていたようで、ずっと眺めていると慌ただしい人の行き交いが目に見えるようです。縦長の上げ下げ窓は、当時は建具と分銅の重さを同じにして、分銅を下げると窓が開くようになっていましたが、今はサッシになっています。また、天井が柔らかい曲線を描いているのは、真ん中を吊り上げると全体の空間が下がって狭く見えないからだとか。また、2Fの壁には筋交いが入っているのに対して、1Fは土壁づくりで筋交いが入っておらず、上下階で工法が違う、というのも個性的です。
「土肥歯科医院」こちらも時代から置き去りになったようなレトロな洋風建築です。横長の窓、そして三角のモチーフが良い感じです。
裏にまわると木造2階建ての日本家屋の姿が見えます。
「大野家」現在は銀河堂というカフェが改修して活用しています。当時、大通りで縄市が開かれていた名残として広い前庭空間をもつ店蔵です。間口が狭く、奥行きが長い短冊型の町屋敷地に、店蔵・住居・中蔵・離れが建っています。
飯能小町公園。飯能市中心市街地活性化基本計画における「ポケットパーク設置」に基づき、飯能市がこの敷地を買い取りました。もともとは「黒金子」と呼ばれた店蔵で金子忠五郎のお屋敷があり、明治天皇の行在所にも使われた由緒のある場所です。多目的トイレは屋根裏が見える造りで、開放的で気持ちが良いです。公園ですが、遊具は置かず、朝市が行われたり、自転車で遊んだり、時には駐車場代わりになったりと非常に汎用性の高い空間となっています。ちなみに後でご紹介する江州屋さんが鉄の看板をつくられました。
南裏通りに戻ってきて驚きました。なんと「三輪邸」が取り壊され、完全に姿を消していました。99歳のご主人が大切に住み続けていた、品のある古民家でした。ご存命のころにはお家の中を見せていただいたり、と非常にお世話になった方です。息子さんが継がれるような話も聞いておりましたし、9月には存在していたのですが、跡形もなくなくなっており、しばし呆然としてしまいました。どれだけ愛情をかけられた建物も壊すのは一瞬ですね…
こちらももともとは4軒長屋でしたが、半分が解体され、今は2軒分が残っています。2階の外壁にはモルタルを叩きつけたようなドイツ壁仕上げ、出桁造りの屋根にも日本家屋の良さが感じられます。
「篠原家土蔵」蔵の黒と白の幾何学模様が美しいなまこ壁です。なまこ壁は壁面に平瓦を並べて貼り、「目地」と呼ばれるその継ぎ目の部分に漆喰をかまぼこ型に高く盛り上げて塗る左官工法です。なまこ壁という名前は、この盛り上がった漆喰の形状が海に住む海鼠(なまこ)に似ているから名づけられたと言われています。このなまこ壁は、風雨から建物を守るため、そして、火災の延焼を防ぐという目的もありました。雨に弱い土壁の表面に、防湿のために平瓦を並べて貼り、その目地を漆喰で厚く塗ることで耐久性も高まり、長い年月の風雨に耐える造りになっています。
「ピーヒャラ路地」もともと名前のなかった路地ですが、お住いの方が自主的にネーミングしてくれました。この季節はお囃子の練習で、笛の音色が聞こえてくるのでしょうね。
飯能の顔となる建物の一つ「畑屋」。屋根の破風に取り付けられる懸魚という飾りがあり、これも火除けの意味合いだそうです。長らくうなぎ屋さんを営まれていましたが、現在は消防法の関係で特定の人が使える方法として撮影スタジオとして使用されているそうです。
高麗横丁と大通りの交差点角に位置する「小槻家」。江戸時代には炭問屋、呉服反物の商い、現在は入口電業を営んでおられます。鬼瓦の後ろに影盛がついており、「入口」という19代続く屋号が彫られています。
「江州屋」近江商人の初代が味噌醤油屋を営み、その後曾孫にあたる可成庶子さんが新しい鍛鉄の展示販売店として、古民家を引き継ぎ使っています。
お店の中を見せていただきました。鍛鉄を生業とする鍛冶職人、可成幸男氏が叩き上げた作品の数々。「侍」という作品を見せていただきましたが、これが一つの鉄で作られているとは信じられません。海外な様々な大会でも受賞歴のある鍛鉄の達人。そんな方と間近でお話できて大変光栄でした。
「小能家」代々豪商であり、小能五郎は武蔵野鉄道の二代目社長です。土蔵を住居として改修しています。腰壁にはなまこ壁が使われており、米沢の職人が「なまこ壁を作って良いなら」と改修を引き受けたそうです。
銀河堂の裏より。折釘が蔵に刺さっているのは、近隣で火災が発生した際にはこの金物で止めていたカンヌキを外して、板壁を蔵から切り離すことで延焼を防いでいる、ということです。
新しい飯能商工会議所会館です。真ん中をコンクリートにすることにより、防火対策をとっています。まちなかの木造建築としてはギリギリのラインを狙って、この形にたどりついたとのこと。西川林業の製材技術とCLT(Cross Laminated Timber=直交集成板)の新旧の木質技術を組み合わせた工法で開放的で美しい建物となりました。
最後はお馴染みの店蔵絹甚です。店の土間から奥の中庭に抜ける通り土間があります。火事の時に閉まる土戸は鏡のように佐官職人が磨いており、ジャバラでもきちんと閉まります。
揚戸を上がるところを見せていただきました。
狭くて急な階段をのぼり、これまた重厚な土戸をくぐります。
ゴールです。大変お疲れさまでした。飯能に住んでいてもなかなかこうやってゆっくり見て回る機会はなく、いろいろなことに気づかされました。しかし時は確実に流れていて、灯がともる建物もあれば、灯が消える建物もある。そんな光と影を垣間見たひと時でした。一番寂しいのはそこに何があったかも忘れること。今の風景を脳裏に刻んでいきたいと強く思いました。
路地はまちの皺のようなもの。その1本1本を普段意識することはありませんが、まちの表情や個性や魅力を形作っています。そこには奥深い歴史や人の暮らしの積み重ねのようなものが刻まれています。もしそれがなくなってしまったとしたら、綺麗だけどどこかのっぺりとしたまちの表情になってしまうのではないでしょうか。未来を考える人、過去を偲ぶ人、まちはいつもいろいろな思いが交錯しながら、綱引きをしているようです。
いろいろなことを学んでお腹が空いたので、中華料理の王紀で腹ごしらえ♪サンラータン刀削麺、安いけどボリューミーかつ辛い!
辛い後にはCOTORIDOのクレープを♪焼きたて生地がパリパリで美味しく、こちらもかなり食べ応えがあります。ピーナツバターチョコレートバナナクレープを食べて、頭の中も、お腹の中も大満足な半日となりました。次回はツアーご参加いかがでしょうか?